朝に道を開けば 『楽訓』 貝原益軒著より
朝に道を開けば 『楽訓』 貝原益軒著より
【本文】
つくづく思えば、楽しみの多いこの世なのを、道を知らないために、我と我が心を苦しめ、天を恨み、人をとがめる。このように道を知らないために憂いの多い人は、途方に暮れる心の闇がおろかなのだといえよう。人の身は金石ではない。生きているもので、最後には死なぬと言うものはない。また二度と産まれてくる身ではないから、この世にある間は楽しんで生きねばならぬ。口惜しくも過ぎた昔のことは、どうにもしようがない。いくばくもない生命であるから、今から後は一日も月日を惜しんで、以前の間違いを悔いて、飛騨の大工(たくみ)の打つ墨縄ではないが、ただ一筋に善を好み、道を楽しんで過ごすのが、この世に生きる甲斐であろう。年老いては同じことをする癖があるので、繰り返し自分に言い聞かせ、心を戒め、また人にも楽しみをすすめる仲立ちとしよう。かえすがえす我も人も、生まれついた楽しみを知らないで、身を無駄にし、甲斐なく朽ちていくのは残念である。もし朝に道を聞けば、人となった甲斐があるもので、夕に死んでもまた何をか恨もう。
長らく連載してきた貝原益軒が晩年に現わした『楽訓』も、これがラストのお話しです。
貝原益軒は江戸の後期に生きた儒学者で、『養生訓』の著者として今日まで名前を刻んでいる賢人です。その貝原益軒が最終的にたどり着いた場所が、この楽しみ生きるという境地です。貝原益軒の時代も、現代のように様々な問題を抱えていたに違いなく、そして文明もまだ開かれていない時代に於いては、質素にそして健気に命を紡いできたことだと思います。しかしそういったつらさを乗り越えてなお、この世は楽しいと言い切る益軒の心境はいかなものであったろうと考えます。
私も人生の半分を過ごしてきましたが、後悔することもたくさんあります。また、時に、未熟さ故に人を憎んだり、うらやんだり、そしてあざ笑ったりしてきました。今思うと本当に申し訳なく、一人一人謝りたい気持ちでありますが、しかしそれもそれで自分の人生と思って、これからはそういうことがないようにと心を正すことしかありません。そして益軒が言うように、その一助として人生の楽しみを見つける、人生は楽しむものだという前提を正面に持ってくることではないかと思います。
朝起きて、「おはよう」といえば、きっと明るい笑顔でいられるよう。
昼に太陽が昇って、「こんにちは」といえば、きっと今日もいい日であるだろう。
夜に夕日を眺めて、「おやすみなさい」といえば、きっと明日はまたいい顔でいられるよう。
そうやって毎日生まれ変わって、幼児のような新鮮さで人生を楽しむ。何かの形で人の役に立っている、たとえとても小さなコミュニティの中であっても、自分がそこにいるありがたさを感じながら、猫がそこに転がっているおもしろさを感じながら、それが今日の楽しさであればいいのかな。
今日楽しかったことは、あなたに出会えたことです。
【本文】
つくづく思えば、楽しみの多いこの世なのを、道を知らないために、我と我が心を苦しめ、天を恨み、人をとがめる。このように道を知らないために憂いの多い人は、途方に暮れる心の闇がおろかなのだといえよう。人の身は金石ではない。生きているもので、最後には死なぬと言うものはない。また二度と産まれてくる身ではないから、この世にある間は楽しんで生きねばならぬ。口惜しくも過ぎた昔のことは、どうにもしようがない。いくばくもない生命であるから、今から後は一日も月日を惜しんで、以前の間違いを悔いて、飛騨の大工(たくみ)の打つ墨縄ではないが、ただ一筋に善を好み、道を楽しんで過ごすのが、この世に生きる甲斐であろう。年老いては同じことをする癖があるので、繰り返し自分に言い聞かせ、心を戒め、また人にも楽しみをすすめる仲立ちとしよう。かえすがえす我も人も、生まれついた楽しみを知らないで、身を無駄にし、甲斐なく朽ちていくのは残念である。もし朝に道を聞けば、人となった甲斐があるもので、夕に死んでもまた何をか恨もう。
長らく連載してきた貝原益軒が晩年に現わした『楽訓』も、これがラストのお話しです。
貝原益軒は江戸の後期に生きた儒学者で、『養生訓』の著者として今日まで名前を刻んでいる賢人です。その貝原益軒が最終的にたどり着いた場所が、この楽しみ生きるという境地です。貝原益軒の時代も、現代のように様々な問題を抱えていたに違いなく、そして文明もまだ開かれていない時代に於いては、質素にそして健気に命を紡いできたことだと思います。しかしそういったつらさを乗り越えてなお、この世は楽しいと言い切る益軒の心境はいかなものであったろうと考えます。
私も人生の半分を過ごしてきましたが、後悔することもたくさんあります。また、時に、未熟さ故に人を憎んだり、うらやんだり、そしてあざ笑ったりしてきました。今思うと本当に申し訳なく、一人一人謝りたい気持ちでありますが、しかしそれもそれで自分の人生と思って、これからはそういうことがないようにと心を正すことしかありません。そして益軒が言うように、その一助として人生の楽しみを見つける、人生は楽しむものだという前提を正面に持ってくることではないかと思います。
朝起きて、「おはよう」といえば、きっと明るい笑顔でいられるよう。
昼に太陽が昇って、「こんにちは」といえば、きっと今日もいい日であるだろう。
夜に夕日を眺めて、「おやすみなさい」といえば、きっと明日はまたいい顔でいられるよう。
そうやって毎日生まれ変わって、幼児のような新鮮さで人生を楽しむ。何かの形で人の役に立っている、たとえとても小さなコミュニティの中であっても、自分がそこにいるありがたさを感じながら、猫がそこに転がっているおもしろさを感じながら、それが今日の楽しさであればいいのかな。
今日楽しかったことは、あなたに出会えたことです。
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