こころを捉える(2) 魂と魄
2008 / 05 / 22 ( Thu ) 昨日のブログの最後に、各五臓と心の働きの配当を挙げておきました。本日は、このうちの肝と肺に配当される魂と魄について書いてみたいと思います
。 医学書ではありませんが、唐の孔穎達(くようだつ)が書いた哲学書『春秋左伝正義』の中に、魂と魄の違いが書かれています。そこには、 「魂と魄は異なる。形に附属するものが魂で、気に附属するものが魄です。 形に附属するということは、耳目心識や手足の運動、啼いたり呼んだりする声ということ。 気に附属するということは、精神性識という次第に知るところにあるということ。」 とあります。かなり意訳したのですが、それでも分りにくいと思います・・・。 形に附属するとは、形は目に見えるものですので、これは五感器や運動器などを指しており、気に附属するとは、気は目に見えないものですので、これは感覚的なものとなります。これらを端的にしますと、 魂 → 感覚器に入れること 魄 → 感覚を知覚すること と言えると思います。しかし、感覚器の感知と、そここから生じる感覚は、決して離れるものではありません。 例えば“見る”ということを考えてみます。 見ることには、目という感覚器がありますが、“見る”という行為そのものは、網膜に映像が映しこまれているだけです。これは魂の作用によって行われています。ただ単に目に入っているに過ぎない状態で、目という感覚器に外の映像が感知されているだけで、こころまでは落とし込まれていません。これがこころにまでやってくるには、目から入った映像が、意識に知覚されなければいけません。知覚されて、初め“見る”ことが、こころに落とし込まれる素地ができていきます。この感覚にあたるのが魄ということになります。我々の感覚は、魄と魂がお互いが協調してキャッチボールをしているからこそ、知覚と感覚の両方を得ているということになります。 しかし、このキャッチボールは、実際のキャッチボールのように、一球一球確かめながら行われたり、のんびりと山なりのボールで行われるわけではありません。魂と魄の間で行われるキャッチボールは、ほぼ同時進行で瞬時に行われます。感覚と知覚の受け渡しは、考えながら行われるのではなく、受け手と投げ手が入れ代わり立ち代り、瞬時に同時進行で行われていきます。“見る”という行為だけではなく、例えば何かを食べたとき、口に入れた瞬間から歯ざわり、味という感覚が起き、おいしければもっと食べたいと感じ、おいしくなければもういいやと感じ取りますが、これは瞬時に行われます。 何気ない普通の行為は、このように魂と魄の作用によって為されています。逆に言えば、魂と魄が離れてしまうことと、感覚が乱れたり、無意識の動作ができにくくなったりするという身体の異変が生じます。例えば何かを見ているけれども、こころこころにあらずといった感じで、見ているのに見ていないような、無感情、無関心の状態が続くことなども出てきます。無意識の行動を自然にできなくなるという意味では、西洋医学でいう自律神経失調症なども、魂と魄の乖離が一つとして考えることができます。 我々が普段こうして普通に行っている生活は、実はとても高度な活動です。心地よいものを見たり、おいしいものを食べたりといったことは、魂と魄を養うことにもなりますので、時に日常の雑事から離れ、“好きなことをする”ということも大切にしていただきたいと思います。 ※ 以前表参道・源保堂鍼灸のサイト内にあるコラム『東洋医学って何?』においても、「心の動き」と題して書いたことがありますが、そちらと重なる部分もありますので、もしご興味がありましたらそちらもご参照下さい。 |
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